音楽との再会

愛知県西尾市S・Tさん ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」

“2011年3月11日 午後2時46分のドビュッシー”

あの日、廊下に網を広げ、高校に贈るバッティングゲージを仕立てていました。旧家造りの我が家の廊下は広く、硝子越しの日差しに正に春の懐の趣でした。ラジオをかけ放しにし、糸を操る指に力を込め網目を編んでいました。
聞くともなく聞く番組が『気ままにクラシック』に変わりました。暫くしてフルートの音が流れ、それにハープが続き、そしてホルンが揺蕩(たゆた)うメロディを奏でました。
とその時、音楽が途切れ、地震情報に変わりました。アナウンサーの声に被ってデスクの人であろう男の「揺れてる揺れてる」という声が聞こえました。

直後、我が家が揺れた。

揺れは私を驚かせはしましたが、それ以上のものではありませんでした。が、私は直感しました。「大変なことが起きた」と。テレビをつけると、いつもと変わらぬ長閑(のどか)な風景が映りました。
私は叫びました。「早く逃げろ」
災害男を自認する私の確信です。万余あるクラシックの曲の中から、この時この曲を選ばせた天の意を察したのです。「真珠湾ではない、予告だ」と。曲が始まった時、まだ地震は起きていません。震源地から我が家まで、550km弱、2分もすれば地震波は届きます。そう、フルートの音が聞こえてから2分余りは過ぎていたのです。
次の文を、声に出して読んでください。

「牧神の午後への前奏曲」
「ぼく(じ)しんのごごへの前奏曲」

一週間後の同番組はおしゃべりをやめ、音楽だけを流しました。ベートーベンの7番とマーラーの1番でした。正に人間の選曲です。